40.蚕の吐く糸

TLTSA40

『いわさきちひろ 知られざる愛の生涯』読了。軽めの本と思っていたら、想像以上に深い内容だった。
大まかに説明すると、本書は大正7年生まれのいわさきちひろを、戦中戦後を生きたひとりの女性画家として追うことで、当時の女性の社会的自立状況をも描いている。確かに、あどけない子供の絵に気を取られていると見落としてしまうが、いわさきちひろは、家庭の主婦におさまる女性が大半の中で、手に職を持ち、常に第一線で活躍した職業婦人の先駆者でもあり成功者でもあった。そこに至るまでの苦闘の足跡がこの本には綴られている。

彼女の生い立ちの中で、私が特に驚いたのは、彼女の両親がともに軍部関係者だったこと。戦時、それ自体はめずらしいことではないけれど、いわさきちひろが共産党員であり、また、彼女の夫(松本善明)が共産党衆議院議員だったことを知っていただけに、それは意外な事実と受け取れた。しかし、思想上、親とは正反対なところへ向かっていくことは、彼女の芯の強い性質の表れともいえるし、他にも彼女の穏やかながらも意志的な性格は、本書の中のエピソードの随所に見られた。
例えば、最初の離婚後、両親の暮らす田舎へ戻ったものの、東京育ちの彼女は、詩よりも米を作れ、という土地の雰囲気になじめず、家出をしてひとり東京に戻るところ。講演会に感激した彼女が親に内緒で共産党に入党するところ。のちの再婚相手(松本氏)がいわさきちひろよりもずっと年下だったというのも、時代を考えれば、十分結婚への障害となる条件だ。そこを突破していくあたり、つまり、いわさきちひろは信念を持って生きた人なのだと思う。
お百姓さんが被る帽子を油彩絵具で黒く塗り、キャプリーヌとして被って歩いていた、いわさきちひろ。そんな茶目っ気ある洒落たセンスを持ちながら、その裏には、労働者がきれいな服を着ていたっていいはずだという確固とした彼女の考えがあった。

そんな彼女が紡ぎだす色はいつも優しく美しい。私が小学生の頃、図書館では子供たちが先を争うようにしていわさきちひろの絵本を借りていた。幼い私も見惚れるように彼女の水彩画を眺めていた。そのことを振り返ると、文中にあった一文、人間は複雑な感情を持っているけれども、彼女はそこから蚕が糸を吐くようにしてきれいなものだけを描いていた、という表現は、彼女の作品世界を見事に言い表している。そう、まさに蚕が糸を吐くように――。