73.我が友ジャン・ムーラン

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午前、MRI検査。異常なしを確認するための検査。
午後、税理士さんの打ち合わせ。確定申告作業はほぼ終了。今年は例年以上に早く終わって良かった。
解放感からスタッフYと本日発売のユニクロ-ルメールを見物に行く。日本の汗ダラダラの夏にちょうど良さそうな服多し。黒澤明の映画に出てくる女のひとが夏のシーンで着てそうなワンピースもあった。

部屋に戻り、机に向うも原稿はかどらず、諦めて、ベッドに入り、ピエール・ムニエ著『我が友ジャン・ムーラン』の続きを読む。薄い本だからすぐに読み終わると思ったのに、なかなかハードルが高い本。手こずっている。
この本は、私がフランスにいたとき、シャルトルに遊びに行き、ドゴールの片腕として活躍したレジスタンスの英雄ジャン・ムーランがシャルトル(含む県の)の知事だったと知り、それをきっかけに彼に興味を持ち、手にとった。でも、内容的には、どちらかというとジャン・ムーランのひととなりではなく、フランスのレジスタンス史に絡むピエール・ムニエの証言集になっていて、フランスの抵抗活動に関する知識がないと少し難しい。
読んでも読んでも知らないことがたくさんあるなあ、という感想を抱きつつ、読了、就寝。

 

 

57.ことらちゃんの冒険

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昨日の午後、血の毛が引いていくみたいに空が曇り始めたと思ったら、見事なまでに今日は陽がささない(写真は昨日撮ったもの)。明日は雪が降るという。特に出かける用事もない私は、午後、チューリップの球根を植える。残しておいた最後の8個。5個を水栽培に。3個はセラミスグラニューで。
去年も土に埋めない方法で咲かせる挑戦をしたのだけれど、根は伸びたものの、芽が延びなかった。今年こそ、と期待をかけているのだけれど、どうだろう(今年は今年で多少の工夫はしています)。
デンドロビウムの手入れを済ませ、先週編集者からいただいた絵本『ことらちゃんの冒険』を読む。やっぱり水彩画はいいなあ。ウェブマガジン《memorandom》でもイラストレイターの小野寺(光子)さんに水彩画の連載をお願いしているけれど、水彩画ってホント、透明感があって美しいと思う。原稿があがってくるたび、その美しさに心を奪われ、わあ、きれい!と声をあげてしまう。

53.素顔の佐伯祐三

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朝、寒くて目が覚める。小雨が降っている。今年、最初の冬の寒さ。

今日は通院日。
受付に診察券を出すと、待ち時間は一時間だという。
私は靴をもう一度履いて、コーヒーショップに向かう。
店の隅のソファでトーストと甘いミルクコーヒーを口にしながら、持参した本、『素顔の佐伯祐三』を読み、時間をつぶす。
著者は佐伯祐三の美大時代の友人、画家の山田新一。
パリで客死したことから、悲壮感漂う話題が多い佐伯祐三だけど、学生時代の楽しい日々なども綴られており、全体的に内容は明るい。

夜は《memorandom》の打ち合わせでthe geno の佐藤さん(=あいさとうさん/ex.ザ・ヘア)に会う。佐藤さんにお願いしている連載について、デザイン、進行の件など。

 

 

40.蚕の吐く糸

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『いわさきちひろ 知られざる愛の生涯』読了。軽めの本と思っていたら、想像以上に深い内容だった。
大まかに説明すると、本書は大正7年生まれのいわさきちひろを、戦中戦後を生きたひとりの女性画家として追うことで、当時の女性の社会的自立状況をも描いている。確かに、あどけない子供の絵に気を取られていると見落としてしまうが、いわさきちひろは、家庭の主婦におさまる女性が大半の中で、手に職を持ち、常に第一線で活躍した職業婦人の先駆者でもあり成功者でもあった。そこに至るまでの苦闘の足跡がこの本には綴られている。

彼女の生い立ちの中で、私が特に驚いたのは、彼女の両親がともに軍部関係者だったこと。戦時、それ自体はめずらしいことではないけれど、いわさきちひろが共産党員であり、また、彼女の夫(松本善明)が共産党衆議院議員だったことを知っていただけに、それは意外な事実と受け取れた。しかし、思想上、親とは正反対なところへ向かっていくことは、彼女の芯の強い性質の表れともいえるし、他にも彼女の穏やかながらも意志的な性格は、本書の中のエピソードの随所に見られた。
例えば、最初の離婚後、両親の暮らす田舎へ戻ったものの、東京育ちの彼女は、詩よりも米を作れ、という土地の雰囲気になじめず、家出をしてひとり東京に戻るところ。講演会に感激した彼女が親に内緒で共産党に入党するところ。のちの再婚相手(松本氏)がいわさきちひろよりもずっと年下だったというのも、時代を考えれば、十分結婚への障害となる条件だ。そこを突破していくあたり、つまり、いわさきちひろは信念を持って生きた人なのだと思う。
お百姓さんが被る帽子を油彩絵具で黒く塗り、キャプリーヌとして被って歩いていた、いわさきちひろ。そんな茶目っ気ある洒落たセンスを持ちながら、その裏には、労働者がきれいな服を着ていたっていいはずだという確固とした彼女の考えがあった。

そんな彼女が紡ぎだす色はいつも優しく美しい。私が小学生の頃、図書館では子供たちが先を争うようにしていわさきちひろの絵本を借りていた。幼い私も見惚れるように彼女の水彩画を眺めていた。そのことを振り返ると、文中にあった一文、人間は複雑な感情を持っているけれども、彼女はそこから蚕が糸を吐くようにしてきれいなものだけを描いていた、という表現は、彼女の作品世界を見事に言い表している。そう、まさに蚕が糸を吐くように――。

 

 

23.夏の終り

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瀬戸内晴美『夏の終り』読了。原作を読むと、映画がいかに駄作であったかがわかる。脚本家も監督もまるでわかっていない、と思わず文句を言いたくなった。そして、原作はさすが瀬戸内晴美、体を張っているひとは違う、と感嘆しきり。
私も年をとっても恋愛し続けるタイプだとは思うけど、それを作品化できるかというとまた別な話。できないだろうなあ。できない、たぶん。そんな勇気ない。でも、その一方で、愛の問題に身を削りながら突進していく瀬戸内晴美の小説は、あられもない女の姿なのかもしれないけれど、物書きってそういうあられもないところを読者に見せてなんぼなんじゃないかという思いもある。そう考えると私の文章なんて子供のお絵描きみたいなものですね。

以下、本文中で一番好きだったところ。
《慎吾(=知子の別れたばかりの恋人、妻帯者)が無意識に、距離感に左右されて、つい知子の新しい家を訪れることが億劫になるのも、知子が家の雑用や仕事に追われることで、あれほどの涙を忘れてしまっていったのもつまりは、生活という雑事と習慣の繰返しが、意外な強さで人間の感情や感傷を、のみこみ押し流していくせいなのかもしれなかった。そしてそれは知子に、慎吾とのかつての生活が、やはり、愛や情緒より、生活の習慣と惰性で保たれていたことを、今更のように思い返させていた。
慎吾と別れたら、慎吾もじぶんも、生きていけないのではないかと、本気でおそれていたあの長い歳月の暗示は、いったい何にかけられていたものだろうか。知子は急に、憑き物が落ちたような虚しさと白々しさの中にいるじぶんを感じていた。同時にひどく軀中が軽くさわやかになっているのを認めないわけにいかなかった》

ここまで書いちゃうんだもん、逃げ場ないですよ。

 

 

16.夜の愉しみ

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師走といえども、忙しいという言葉が飛び交い始めたのは十一月のことだ。この季節になると、たった数日の正月休みのために、なぜこんなにみんなせわしなく働かねばならないのか、と腹立たしく思うけれども、これももはや日本の伝統なのかもしれない。今日も前の予定が押して、香水の発表会に出席できなかった。新しい担当者と挨拶をするいいチャンスだったのに。

最近の数少ない愉しみは、眠る前に映画を観ること、本を読むこと。そうして頭の緊張を緩めてから眠りにつく。特にいまは、瀬戸内晴美の『夏の終り』に夢中だ。この小説の主要な登場たちは、巻末におかれた竹西寛子氏の解説からひくと、「生活者としての内的秩序が、いわゆる良識ある生活とは重なり合わぬ」者たち、と説明されているが、瀬戸内晴美の小説が好きかどうかは別にして、私自身も主人公たちと同じく重なり合わぬ者であるがゆえ、感情移入をあまりしない私にしてはめずらしく心引き寄せられ読んでいる。あと数十ページで読了するが、瀬戸内晴美の他の本も読んでみたい。期待はしていないが、興味がある。

 

 

13.冬の始まり

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仕事の休憩も兼ね、横になって読書を一時間。瀬戸内寂聴の短編小説『夏の終り』。文句なしに面白い。僧侶に対してひどい言い草だが、どうも彼女のルックスに嫌悪感があって、今まで私は彼女の作品に手を伸ばしたことがなかった。でも、いまは、ああ、巧いひとなんだなあ、と思う。年上の男と年下の男から同時に愛し愛されする女性の心も、話のディテールも、よくわかるなあ、と思ったし。

この小説を読んでみようと思ったのは、先に映画を観たからで、映画が消化不良だったため。原作はどうなっているのだろうと思ったのだ。
映画に関して言えば、満嶋ひかりが、綾野剛演じる年下の男と性的関係があるように見えないというのが最大の失敗だと思うけれども。というか、満嶋ひかりが童顔なので、男性ふたりがどちらも年上に見えて、なんだかひどく輪郭のぼやけた作品になっていた(原作では主人公の女性の年齢は30代後半)。

夕方、デザイナーのMさんと単行本の打ち合わせ。終わらぬ仕事はないとはいえ、12月中に予定まで進むのか、と不安少々。