09.共喰いとスイートピー

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昨日の疲れが残っていたので原稿を書くのはお休みにして、終日、家事に時間を費やす。白い花台を黒ペンキで塗る、夏物と秋冬物の入れ替えなど。地方によっては驚かれるかもしれないが、温暖化のためか、この時期になっても東京は暑い日が時々あり、ゆえに十二月を前に衣替えもしていてもさほど遅いとは感じない。のんびりしたものだ。

今日は、スイートピーの種も撒いた。去年よりもわさわさ咲かせたかったので、去年の倍の種の量を。それにしても、ネットの画像では国産メーカーだったのに、届いたのは海外メーカーの種でそのことだけは腹立たしい。経験上、発芽率は国産メーカーのほうが断然高い。来年の春、うまく咲いてくれるだろうか。

そして、夜、青山真治監督作品『共喰い』をDVDで観る。性交中、女性に暴力をふるう性癖がある父を持つ息子の話、と聞き、原作の芥川賞受賞作品のほうは、なんとなく恐ろしくて読むのを避けていた。が、映画は非常に面白かった。暴力や殺人がからむのに、父親役の光石研を始め、登場人物がみんなどこか明るくてしぶとくて滑稽で、親の性癖はともかく、途中から、誰しも思春期には親の欠点を自分が引き継いでいるのではと悩むものだよなあ、と、ある種成長譚でも観ているかのような気分になった。原作と映画の結末は違うらしいが、是非原作も読んでみたい。

 

 

08.悲情城市

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東京フィルメックスのホウ・シャオシェン監督特集上映を観るため、母と妹を誘い、有楽町へ。
以前、母と台北に行ったついでに九份まで足を延ばしたことがあったので、九份を舞台にした映画『悲情城市』をぜひとも母に観せたかったのだ。また、『悲情城市』は、玉音放送から始まり、二・二八事件、蒋介石の国民党が台北を臨時首都と制定するまでを描いた歴史映画でもあるので、この辺りのことをリアルタイムで知っている母の感想を聞いてみたいという興味もあった。

上映後、ホウ・シャオシェン監督へのQ&Aの時間が設けられ、興味深い話もいろいろ出ていたが、その後、もう一本、シルヴィア・チャン監督の作品『念念』を観ていたら、思わせぶりなシーンが多い作品だったため、頭の中でストーリーをつないでいくのにものすごく疲れて、会場を出る頃には私の具合はすっかり悪くなってしまった。とりあえず母と私はビルの中のベンチに腰掛け、私の動悸が落ち着くのを待ったが(妹は『悲情城市』だけを観て先に帰った)、なにしろそんな状態だったので映画の感想を語り合う余裕などなく、トニー・レオンの色気はすごい、という話をするだけで精いっぱいに終わった。トニー・レオンのファンでもないのに、これではトニー・レオンファンの母娘の会話みたいだ。

 

06.子宮に沈める

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ジャズシンガーakikoさんと打ち合わせ。今回はこちらからのお願い。断られることも覚悟して行ったのに、akikoさんの口から出た「千彩さんからの話とあれば・・・」というひとことに驚く。akikoさんの堅気な性格を一瞬忘れ、「私、akikoさんに何か恩義を感じさせるようなことしたかなあ・・・」とそちらの方向で戸惑ってしまった。いずれにしても、頼みごとを快く引き受けてくれるひとは大事にしなければ、と思う。自分が得できるからではなく、それは引き受けてくれる相手の優しさによるものだから。

帰宅後、DVDで緒方貴臣監督映画『子宮に沈める』を観る。大阪二児放置死事件をもとにつくられた作品。ラストシーンは“?”という感じだったけど、カメラワークが個性的でこんな風にも絵を作れるのかと感心する。フレーミングが興味深い。タイトルについては賛否両論あるようだけど、観ればわかるというか、シングルマザーを取り巻く諸問題を、子宮に沈めて(=母性に負わせて)解決できるように考えてしまっていいのか?という投げかけだとわかったので、私は気にならなかった。女性として、子宮という言葉をこういう形で(メタファーとして)使って欲しくないとは思うけれども。

 

04.何かいいこと

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東京フィルメックス(映画祭)のピエール・エテックス特集上映を観にKさんと有楽町へ。映画のタイトルは『大恋愛』。久しぶりに60年代のフランス映画を観た。感想は“まあまあ”。ストーリー自体は他愛もないラブコメディーだから、ホテルの部屋のテレビでワインでも飲みながら観たらもっと楽しめたかも。コメディー映画を硬い椅子に座って有り難がって観ることに無理があるような。せめて溶かしバターをかけたポップコーンでもあればね。

帰りに昼食をとるためお店に入ると、案内された窓際の席からちょうど真下に新幹線の線路が敷かれているのが見える。
間もなく、その線路の上を白い車両がビルとビルの隙間をくねくねと身をよじらせようにこちらに向かって走ってきた。
「わあ、白蛇みたい!」
私は興奮して、写真を撮ろうと慌ててカメラを取りだした。しかし、相手は新幹線。あっという間に白蛇は窓の下を通り過ぎていく。「ああ・・・」と肩を落とすと、「どうせまたすぐに来るよ」とKさんは言う。確かにその通りだ。東京発着の新幹線の本数の多さは私も知っている。そして、実際、すぐに次の白蛇はやってきた。
「なんだか新幹線って一直線に走っていくというイメージだったけど、本当はこんなにくねくね蛇行しているのね。」
私はシャッターを切りながら、そうつぶやいた。
その日は食事の間、何度も何度も白蛇を見た。
何かいいことがあるかもしれない。

 

03.カッコーの巣の上で

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随分前から再見したいと願っていた映画『カッコーの巣の上で』をDVDで観る。
初めて観たのはいつだったのか考えてみると、かれこれ30年前。
先週観た『真夜中のカーボーイ』も30年ぶりだったことを思えば、さすがに私もいい年になるはずだ。

近頃、思うのだが、自分が考える以上に私はアメリカン・ニューシネマに影響を受けているのではなかろうか。『カッコーの巣の上で』はもちろん、『ファイブ・イージー・ピーセス』『俺たちに明日はない』『明日に向って撃て!』『フレンチ・コネクション』『タクシードライバー』e.t.c…。アメリカン・ニューシネマを好んで観ていた、というよりも、アメリカン・ニューシネマの流行った時代に映画をよく観ていた、ゆえに影響を受けた、というのが正しい表現かもしれない。しかし、10代のときに観た映画の影響というのは大きなもので、それが当時の流行だとしても、その流行は自分の精神的土壌を作ってしまう。

アメリカン・ニューシネマの主人公たちは、社会の規範や権力に倣うことを拒絶し、抗い、大抵結末で挫折した。けれど、それがどんな結末であろうとも(=挫折の結末であろうとも)、10代の私が目を見開き、映画の中から掬い上げ、凝視していたのは反逆の精神だ。彼らは私に、間違っても“長いものに巻かれろ”とは教えなかった。“予定調和に満足するな”と教えてくれた。個の自由について、あれほどまでにさまざまな角度からライトをあて、考える機会を与えてくれたのがアメリカン・ニューシネマだったことを思うと、私はとても幸福な十代を過ごしたことになる。

これがひとまわり下の女友達が相手となると、彼女たちが影響を受けたのは、90年代に流行ったヌーヴェル・ヴァーグのリヴァイヴァルブームで、まるで趣味がかみ合わなくなるから面白い。彼女と私の間を、アンナ・カリーナとジャン=ポール・ベルモンドが繋ぐことはあっても、彼女たちにとって『カッコーの巣の上で』は興味をそそる映画ではないのだろうし、薄毛のジャック・ニコルソンはセクシーでも何でもなく――ああ、マクマーフィーがロボトミー手術を受けて病室へ戻ってくるときのショックを、ネイティヴアメリカンのチーフが朝霧に消えていく後ろ姿を知らないなんて!――そう、世代というのはこうやって創られるのだろう。決して景気がどうした、政治がどうした、それだけの話ではなく――。